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レオ氏郷南蛮館

戊辰戦争と白虎隊だけではない会津の歴史。
レオ氏郷の足跡をたどり、会津の歴史の奥深さに触れる。

大広間

古川さん達がイメージした氏郷時代の大広間。中央の「泰西王侯騎馬図」は復元されたもの。本物はサントリー美術館、神戸美術館に展示されている。

天主の間

「天主の間」の隣の1室には、氏郷の時代の年譜や関連資料が展示されており、当時の様子をしのぶことができる。

十楽

1階のアンテナショップ「十楽」には、氏郷が会津にもたらし、今は会津みやげとなった伝統工芸品が販売されている。

遺品

氏郷の遺品は、ほとんどが散逸している。
展示されているのは、同時代の茶道具やキリシタンがまつっていたマリア像などだ。

想像の「天主の間」。

朱塗りの床、金箔を貼った天井、絢爛豪華な襖絵。2階に復元された氏郷時代の鶴ヶ城の天主の間は、鮮やかな色彩で満たされている。
「残念ながら、当時の城の様子が分かる資料は何も残ってないんです。だから、これは私達が考えた『想像の天主の間』なんですよ」
と、案内してくれた宮泉酒造の古川さんは言う。
襖絵は「秦西王侯騎馬図」。4枚の襖に当時の日本画とは異なる筆致で異国の騎士が描かれている。
しかし、これまで会津に抱いていた質実なイメージと目の前に広がる絢爛豪華な色彩がどうにも結びつかない。
「会津の歴史っていうと、どうしても戊辰戦争とか白虎隊の悲劇をイメージするんですよね」
会津の歴史はそれだけでは語り尽くせない、古川さんはそう言う。

黒川から若松へ。改革者・氏郷。

1590年(天正18年)蒲生氏郷は奥州仕置きを終えた秀吉から会津黒川の地を与えられた。
しかし、これは氏郷にとって「寝耳に水」の移動であっただろう。当時氏郷は伊勢松坂城主。松坂城がようやく完成し、城下町は繁栄の兆しを見せはじめ、これからというときの配置換えだった。
会津に赴いた氏郷の目に映ったのは、芝土手しか城郭らしいものがない見栄えがしない黒川城、武家屋敷の中に寺や町人の屋敷が並ぶ雑然とした城下町。辺境の田舎町だった。
しかし、失望と同時に氏郷の胸には「この地を京都や大阪に匹敵する大都市へと発展させてやる」という新たな情熱も芽生えたのだろう。
「会津黒川」から「会津若松」へ。
故郷の近江の国蒲生郡の「若松の森」にちなんで名前を改めたことからも、街づくりへの意気込みが感じられる。
氏郷は会津を改革した。
七層の天守閣を持つ鶴ヶ城を築き、城を中心として、武士が住む郭内と町人が住む郭外を定め、町割を整備した。信長が施行した、商人が税をとられず自由に商売できる「楽市楽座」をさらに発展させた「十楽」という経済理念を城下に敷き、町ごとに日を決めて市を行う「六斎市(ろくさいいち)」を定めた。大町の「札の辻」を起点として、会津から各国へといたる「会津五街道」を整備した。氏郷は桃山文化や南蛮文化など洗練された都市の文化を持ち込んだだけでなく、会津独自の漆器や酒造りを奨励し、現在の会津の伝統工芸品の基礎をつくりあげた。
城下町は氏郷を追ってやって来た近江や伊勢の商人達でにぎわった。漆器・陶器・瓦などの匠達は、それぞれの技を会津の人びとに伝えた。

400年の昔、この地にキリシタン達がいた。知られざる歴史があった。

朱塗りの床

朱塗りの床に映るろうそくがゆらめく。氏郷が会津を治めたのは、わずか5年。その治世はあまりに短かった。

ステンドグラス

黒塗りの外観にステンドグラス。空き店舗になってしまった大正時代に造られた建物を利用して「レオ氏郷南蛮館」はオープンした。

きらびやかな城下町・会津。

「蒲生氏郷があと10年長く生きていたら、会津は加賀百万石のようなきらびやかな伝統文化を持つ城下町になっていたかもしれない」
と古川さん。
氏郷が治めていた当時の会津若松は東北一大きな都市であり、徳川家・毛利家に次ぎ、全国で3番目に大きな都市だった。加賀百万石に匹敵するにぎわいときらびやかさを持っていた。
しかし、蒲生氏が会津を治めた時代はあまりにも短かった。氏郷40歳。嫡子30歳、二人の孫は25歳と30歳という若さで没し、蒲生氏は完全に断絶した。
1643年(寛永20年)三代将軍・家光の弟にあたる保科正之が会津に入部。
以来、会津は変わった。「徳川家のための会津藩」になった。
そして、会津は最後まで幕府のために戦った。少年達は自刃し、美しかった天守閣は炎上した。
「七日町の一角にあった空店舗を買い取ったのは『会津を元気な街にしよう』そういう強い思いがあったから。そして、いきついたのが蒲生氏郷、レオ氏郷だったんです」

会津の隠れキリシタン。

「天主の間」の隣の一室には、氏郷の年譜や当時の時代背景が分かる資料が展示されている。
蒲生氏郷には様々な顔がある。
勇猛な戦国武将であり、街づくりに優れた手腕を発揮した領主であり、歌をたしなみ、茶の道を極め「利休七哲」の筆頭にあげられる教養人でもある。
少年期に仏教・儒教を修めた氏郷は、後年、洗礼を受け、キリシタンとなった。
改宗の理由については、会津の人びとの人心掌握のために利用したという説もあれば、茶の道では満たされなかった平和への想いからという説もある。「氏郷は宣教師も会津に連れて来たようです。会津にキリスト教を布教しようとしていたんじゃないですかね」
では隠れキリシタンは会津にもいたのだろうか。
「もちろんいました。長崎のような大虐殺もありました。七日町のはずれにキリシタン塚が残っていますし、南会津の田島町や檜枝岐村にもキリシタンの墓がありますよ」
400年の昔、この地にキリシタン達がいた。マリアや聖人の像をあがめ、教えのために命を賭けた。

戊辰戦争と白虎隊だけではない、会津の歴史。
「レオ氏郷南蛮館」は、その奥深さをかい間見ることができる場所である。

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レオ氏郷南蛮館

会津若松市大町1-2-21
TEL(0242)39-2020
■営業時間/AM11:00~PM4:00
■定休日/水曜