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会津全集2006年第18巻時を守る人々目次/06かねろく会津もめん 原山織物工場
原山富夫さん

▲藍を発酵させている室に立つ原山富夫さん

原山公助さん

▲原山公助さん。藍染めのシャツがよくお似合いです。

会津もめん

▲会津もめん。柄は100以上あるという。

はんてん

▲明治時代からの「はんてん」。お店の看板と同じで、名刺変わりに着て問屋を回ったという。

機織りの工場

▲機織りの工場。1人で7台を動かすという。

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かねろく会津もめん
(株)原山織物工場

会津若松市日吉町4-25
TEL0242-27-0342 FAX0242-27-0979
営業時間/8:00〜17:00
定休日/日曜日

400年の伝統工芸品

会津もめんは、400年前の天正年間、会津藩主の蒲生氏郷公が産業振興ために綿花の栽培をすすめ、木綿を織ったのが始まりといわれている。白虎隊士や野口英世も少年時代はこの会津もめんを着ていたのだろう。
変わらない品質とユニークな縞模様の組み合わせが特徴。素朴な伝統に新しい感覚を日々織りこむ。

「今は、甥の公助の指導をしています」

平成16年に代表取締役から退きました。現在は弟の原山恵介が社長を務めています」去年おととしまで、原山織物工場の社長に就任していた原山富夫さんに話を伺った。
「今は、甥の公助の指導をしています」原山公助さんは、先代の社長の息子さんだ。「公助の父親、私の兄は3代目でしたが、公助が12の年に亡くなりました。その後、私が4代目に就任し、今の弟で5代目になります」
6代目を継ぐ公助さんを日々特訓中ということだ。「製造の方から修業させています。経験しなくては覚えられない。感と経験がなによりも大切」と富夫さんは言う。
「今のところは伝統を守っていくのが精一杯です」と公助さん。「今は染料を指導されながら覚えているところです。毎日が温度調整との戦いです。間違って始めて解りますね。何故こうなったかをよく考えます」
おかしいところを仕事をしながら確認していくという公助さんを富夫さんがたのもしそうに見守る。

「藍」は生き物。発酵させて色を出す。

徳島産の藍を使っています。藍は生き物。発酵させて色を出します。温度管理が一番大変ですね」と富夫さん。
「冬はいいけど夏が大変です」という。
富夫さんは、45歳の時に染色の勉強をしに東京の八王子まで行ったことがある。「縁があってね、修業しに行きました。ものづくりは人と人との繋がりだね。いろんな人に助けられながら今までやってこれたと思いますよ」温厚なお顔の富夫さんが昔を懐かしむように話してくれた

「近所の赤ちゃんは、機織りの音で眠るんですよ」

ガタンガタン、ガタンガタンと機(はた)の音が絶え間なく続く。
「機を織る人は3、4人。一人で7台を動かします」というから驚く。工場に足を踏み入れると、話声が全く聞こえなくなる。不思議な感覚だ。黙々と糸をくり、機を織る人の真剣な目に出会う。一人で数台の機を見ながら手を動かす。工場には織り機が28台ある。
「柄の種類は100ではきかない。毎年、何点かは新しくなります」という。
近所の赤ちゃんは、朝、泣いていても機織りが始まると、泣きやむんですよ」富夫さんが笑いながら言う。「お昼休みに音が止まると、泣き始める。そしてまた機織りが始まると眠るらしいね。一定のリズムが気持ちいいんでしょう」
確かに機織りの音を遠くに聞いていると、まるで夜汽車に乗っているような心地良さがある。目を閉じて聴いていると心がしんとしてくる。ちょっと失礼してこのままでいたいなと思っていたら「眠ってもいいですよ」と優しく言ってくれた富夫さん、ありがとうございます
いつまでもお元気でいてくださいね。